top of page

ドゥルマ民族の伝統儀式を受けに。

更新日:4月30日



2024年3月、5年ぶりにケニアを訪れた。小4になる息子が1年半ほど前に、「ケニアに行ったらマゴソスクールのみんなに会えるの?僕もケニアに行きたい」と言い出したのがきっかけだった。

大人になる前に日本とは違う世界、違う価値観に触れることはきっと彼の人生に良い影響を与えるに違いないと思い、いつか連れて行きたいと思っていた。

一年前の2023年2月、丸太で太鼓を製作中に指を切ってしまい、全治2ヶ月の怪我を負った。予定していた演奏の仕事は全てキャンセルしなければならず、少なからず消沈した。

半年後、ケニアのンゴマの師匠であるマテラ長老と弟のサイディから「怪我やトラブルが起きるのには理由がある。マサヤに3つの伝統儀式をする必要があるからケニアへ来なさい。」と連絡があった。

そんな流れからケニア行きを決め、息子の春休みを狙ってチケットを買い、妻と息子と3人でケニアに向かった。




ナイロビに着くと真夏の様に暑かった。ここは南半球、季節が日本と真逆だ。

5年ぶりに見るナイロビの街の発展ぶりは凄まじく、ガラス張りのビルに反射する青空が眩しい。街中は交通量も多く、スキあらばバイクやマタトゥが割り込んでくる、反対車線でもお構いなしに走り抜ける。

昔はあまりなかった信号が目につく。その信号待ちの横断歩道で、おもむろに数人の若者達がアクロバットショーを始めた。赤信号のわずかな短い時間に3つ4つの華麗な技をキメ、帽子片手に車の間を回ってチップを集めていく。ああ、なんてガッツだろう。生きる力の逞しいこと。




翌日早速キベラスラムにあるマゴソスクールに行くと、リリアンをはじめみんながものすごい大歓迎で迎えてくれたので驚いた。最初はどうしてここまでと思ったが、そうか、この5年は彼らにとって相当過酷なものだったのだろうと想像した。コロナ、大統領選、物価の高騰、政情不安、スラムで暮らす彼らにとっては、そうしたことが日々の暮らしに直結してくる。ロックダウン、強制撤去、旱魃や気候変動、日々の暮らしも最低限の彼らにとって、それらを乗り越えて生き延ることがどれほど大変か、たからこそ、こうしてまた生きて会えることを、心の底から喜んでくれているのだと思った。





ナイロビから500km離れたミリティーニ村のンゴマの師匠であるマテラ長老に会いに行くと、20人ほどの若者たちと共にマテラ長老が静かに待ち構えていて、そしてその場で一つ目のキフェンべという、ソゴラになる為の儀式が行われた。

ソゴラとは、伝統音楽や楽器の達人たちに与えられる称号で、この儀式によってドゥルマ民族のンゴマ(太鼓)の継承者として正式に認められ、弟子を育てる事も認められるらしい。




先祖を讃え慰める鎮魂の歌が歌われ、マテラ長老が古いスタイルのンゴマを叩き始める。ドゥルマのンゴマは、ゆっくりと始まる。、精霊たちかご先祖様か、何か目に見えない存在のエネルギーが、ゆっくりと漂う。すっかり初老になった友人のマチュパが、バケツに入った薬草を浸した水で顔や頭や腕や足を洗ってくれる。おもむろに誰ともなく立ち上がって踊りが始まる。エネルギーの渦がグルグルと動き出し、ンゴマやウパツ(金物楽器)の音が、まるで夜の森の中のように深遠に響く。喜び、歌い、踊るもの。トランスし倒れるもの。そこにいるすべての者の魂が、音の中で解放さてゆく。まさにこれこそがンゴマだ。

マチュパに続き、メナズアやママカテンベがダワをかけてくれた。みな口々に祈ってくれる。神に守られますように、道が開かれますように、傷が癒えますようにと。

集まっていた若者たちは、自分がまだこの村にいた当時はちびっ子だった子達だ。それがもう立派な大人になって、しっかりと伝統文化を継承しているのが喜ばしく、誇らしかった。

その若者たちが一人づつ体を洗ってくれた。次々に頭、顔、腕、足、を洗われながら、開け!開け!と声をかけてくれた。皆のポジティブなエネルギーが体の中に満たされていくようだった。人数の力も感じた。こんな風に大勢に囲まれて次々に体を薬草水で洗われながらエネルギーを吹き込まれたら、きっと病気なんかも吹っ飛んでしまうだろうと感じた。きっとこういうやり方で、昔から病気を治療してきたのではないだろうか。全身ずぶ濡れになったが、体の中に力が漲っていた。

この儀式の最後に、カマンザという、ソゴラとしての名を授かった。









は翌日はツンザ村へ出かけた。ツンザ村は入江を挟んだミリティーニ村の対岸に位置し、ボートで渡らなければならない。ツンザ村には、太鼓職人のムゼーフィリポが住んでいて、今は亡きムガンガの巨匠ムゼーアブダラと、その一族のカヤンバグループ「ラワウェ」があり、他にもゴーマやドゥンディコ、ザンダーレなど、ケニア海岸地方の諸民族の、多種多様な伝統文化がとても盛んなエリアだ。ケニアに住んでいた頃、ここでたくさんの取り組みをしたので、自分にとっては思い入れの深い場所。そのツンザ村へ渡る船乗り場のムクペに着くと、5年前にはなかった巨大なコンクリート製の橋が完成していた。

ムヮチェブリッジ。完成はしたが、まだ開通はしていない。



近年アフリカは、世界から注目されている最後の巨大市場と言われている。数年後には世界人口の1/4はアフリカ人になるとも言われ、その人口比も消費意欲旺盛な若者たちが多く、巨大マーケットとして期待されているという。

そのアフリカの東の玄関口であるモンバサ港は、ツンザ村の東の対岸にある。

モンバサ港は、東アフリカ地域で最も規模の大きい国際貿易港で、周辺の港を持たないウガンダやルワンダ、南スーダンなどもこの港に頼っていて、ケニアおよび周辺国の経済にとっても重要な、海の玄関口となっている。

しかし、この港のキャパシティはとても限られていて、経済成長に伴いそのキャパを大きく上回る船舶が港に押し寄せ、船が洋上で1ヶ月以上も待機しなければならず、陸上げされたコンテナは行き場を失い、道路は大渋滞となって流通も停滞した。

そんな中、ケニア政府はvision2030というプロジェクトを発表し、2030年までに中所得国入りを目指す計画を打ち出した。そしてミリティーニ村を含む湾岸地域は特別経済特区SEZに指定され、モンバサ港は日本のODA事業により大幅に拡張された。

開発の勢いは凄まじく、かつては10時間以上かかっていたナイロビーモンバサ間も、新たに建設された高速鉄道によって4時間半で結ばれ、その先の隣国の都市、カンパラやキガリやアジスアベバまで繋がる計画だ。その鉄道の近代的な終着駅はミリティーニ村に建設された。

港から伸びるハイウェイは、ミリティーニ村の地元住民たちの畑や墓地だった土地を削りとって建設され、西のナイロビ、北のマリンディへと交差し、そして南のルンガルンガへと繋がる道はミリティーニ村からこの橋を渡ってツンザ村を横断していくのだ。


この土地で代々暮らしてきたミリティーニの人々は、生まれ育った土地で起きているこれらの目まぐるしい開発に翻弄され、生活を壊されてきた。

かつては斜面の畑を耕し、椰子の実やマンゴーの実を収穫し、山羊や牛を放牧し、連なる丘に先祖を埋葬し、自然界の精霊たちやご先祖様の霊を敬いながら暮らして来た。その大切な畑や墓地を奪われて高架線路よ高速道路が建設され、村の土地のはよそ者に買い上げられ、工場やガソリンスタンドや賃貸アパートが建ち並び、村の人口は急増し治安は悪化した。時には衝突しながらも、変化に対応しながらなんとか暮らしてきたのだ。そんな光景を見て来たから、ツンザに橋がかかる事には懸念があったのだ。


ムクペからボートに乗り込み、川のような入江を20分ほど走らせツンザに降り立つと、ミリティーニとは違う空気が流れている。海に面したところは一面マングローブで覆われている。海から吹き抜ける風が心地よく、無数の椰子が立ち並んでいる。

丘を登ると、開通前のバイパス道が村を貫くように横切っている。車がほとんどないので村は静かだ。風が椰子の葉を揺らす音や、草を食む山羊の鳴き声が聞こえる。


はじめに向かったのは、太鼓職人のフィリポ長老の家。車通りのない舗装道路を渡り、漁師小屋に立ち寄る。地元の若者たちがちょうど漁に出て行こうとしているところだった。魚はほとんど居なくなり、小海老が辛うじて獲れると言っていた。

丘を登るとフィリポ長老の家に着く。懐かしい顔に笑顔が溢れる。ちょうど両面太鼓のチャプオを制作中だった。




フィリポ長老は丸木舟や太鼓を作る名人で、マングローブの森から切り出した丸太で太鼓の胴を掘り、ミャンボという蔓植物で皮を張るリングを作り、マコンゲというサイザル麻からその繊維だけを取り出して縄ひもを編み、山羊や牛や野生動物の皮を張って太鼓を作っている。完全に自然界の中から手作りで見事な楽器を産み出してしまう技に、惚れ惚れしてしまう。口数は少なく、黙々と作業をしている姿は職人の鏡のようだ。そのフィリポ長老が、今でもこうして太鼓作りを続けているのを見れて本当に嬉しくなった。

その後も、カヤンバ作りのフォーティさんや、亡くなったムゼーアブダラ長老の家族を訪ねた。お墓参りに行くとパラパラと雨が降り、亡くなった長老達が喜んでくれていると思った。




海で隔てられていたツンザ村には、その地理的条件もあって昔ながらの生活や文化が多く残されていた。土壁と椰子の葉で葺いた屋根の家々、マンゴーの木やカシューナッツの木々はたくさんの実りをもたらしてくれる。

必要なものは何でも、自然の中から素手で作り出す知恵がある。その知恵こそがが宝ものなんじゃないかと思えるのだ。

そんなツンザ村の暮らしも、これから大きく変化していくのだろう。可能な限り見届けて行かなければと思う。




翌日、再びミリティーニ村のマテラの家に行くと、伝統衣装を身に纏った長老たちがずらりと並んでいた。カヤドゥルマと呼ばれるドゥルマ民族の聖地の森から、儀式をするために駆けつけてくれた長老たちだった。カヤの長老たちは、聖地のそばに暮らしながらカヤの森を守り、時にはカヤに何十日も籠って豊作や雨乞いを祈願する。

その長老達が、わざわざ自分のためにミリティーニまで来てくれて、キラツォというプロテクションの儀式をしてくれた。



低い椅子に座る様促され、精霊を呼び出す歌が始まる。聞いたことのある古い歌。ンゴマが重なり、徐々に空間のエネルギーが高まるのを感じる。リーダーの長老がカヤの森から摘んできた薬草の水を、祈りながら頭や体にかけてくれる。この日の午前中は、急遽埋葬の儀に参列することになり、灼熱の炎天下の中の葬儀でかなり消耗していたのだが、この薬草の水がほてった身体に心地よくて癒された。





やがて自分を周りを取り囲む様にしてぐるぐると回りながら歌われ、ンゴマを叩く長老が、本当に嬉しそうに叩く。意識がハイになる。

リズムがアップテンポのカサに変わると、威厳のある長老達がピョンピョン飛び跳ねながら踊り出した。ンゴマの長老も全身で踊るように楽しそうに叩いていた。

儀式の最後にカヤの長老から『この力は、皆を守り、幸せにする為の力だ。だから、この先お前は、決して人に悪い言葉を発してはならない。たとえ誰かに酷いことを言われようとも、あなたに幸福が訪れますように、と言ってあげなさい。』と言われた。

これは中々深いお言葉だと思い、ありがたく胸に刻み込んだ。

言葉というのは重要だ。何を見て、何を思い、何を言葉にするか。どう捉え、どう言葉にするかで、現実に起きた出来事も認識が変わっていく。そんな事を考えた。





続けてキワンボと呼ばれる儀式が行われた。これはソゴラとしてドゥルマ社会に認められること、ソゴラとして新たに曲を作ったり、伝統音楽をアレンジしたり、伝統音楽を別の楽器を使って演奏したりする事も認めてもらうための儀式だ。

日本でンゴマを他の楽器と混ぜて演奏したり、精霊を呼び出す歌を日本語で歌ったりしてきたが、許可を得ずにそれをするのはドゥルマのしきたりに反したことだったのだ。

マテラ長老は日本での僕のライブの様子を、娘達のスマホのYoutubeやSNSを通じて見ていると言っていた。この地の精霊を呼び出すための歌を、日本語を交えた独自のアレンジで歌っていることを、マテラ長老はむしろ喜んで楽しんでくれているようだった。

だが、西アフリカのバラフォンと一緒にドゥルマの太鼓が演奏されたり、この地の精霊の歌を日本語でアレンジされて歌われるなんて事は、今までドゥルマの伝統社会の中ではありえなかった事。だから、ご先祖さまや精霊たちもいるこの土地で儀式を行い、正式に承認される事が必要だったのだ。




伝統衣装に着替えて、師匠に黒い山羊を捧げ許可を乞うと、山羊を受け取ったマテラ長老が、ドゥルマ語で語り始めた。それは先祖や精霊達に語りかけている様だった。徐々にセンゲーニャが始まり、やがて外に出てお祝いの祭りが始まった。

夕暮れに染まる空の下で、喜びのセンゲーニャが鳴り響く。

祭りの最後に、師匠に捧げた山羊の生皮をリング状にした、キロコというものを左手首にはめてられ、日本に着くまで外さないよう言われた。


この地に根付いた伝統文化を、自分の体の中に染み込ませたいと思い、2004年にケニアに渡り、太鼓や音楽や文化を学びだしてから早20年。多くの長老たちがこの世を去り、子ども達は成長して立派な大人になっている。


今回の旅で、改めて気づいた事がある。それは、ドゥルマの人々との繋がりが、自分のアイデンティティの中でも、重要な部分を締めているという事だ。自分の中にドゥルマがあり、ドゥルマの人々の中にも自分がいる。彼らの中に自分の存在がしっかり認識されていて、相互に影響を与えて合える存在であることがとても心地よく感じた。


今回は自分の怪我のために伝統儀式をしてもらったが、その中で若い世代のセンゲーニャメンバーたちとの交流が生まれた。

自分がンゴマを学ぶためにミリティーニ村にやって来た頃、彼らはまた、小学校低学年か幼児だった子たちだ。



その彼らが、今では素晴らしい歌い手やダンサーやミュージシャンになっており、センゲーニャマテラというグループを作って活動している。リーダーのベングルベは28歳、その彼が若者達を集めてセンゲーニャのグループを作った当初は、周りの者から笑いものにされたそうだ。今時センゲーニャなんてやって何になるなるんだと。メンバーの親達にも、音楽なんてお金にならんだろうと反対された。

でもベングルベは諦めず、メンバーの家を一軒一軒周り、親御さん達を説得した。クリーンなイメージを保つため、メンバー達に酒やドラッグを禁止した。マテラ長老の元でトレーニングを重ねたセンゲーニャマテラは、やがて音楽大会に出場し、スタンディングオベーションの大歓声を受けた。そして今では、村中の若者達がグループに入りたがっているという。

そんな若者たちに、大きな希望を感じた。ミリティーニやツンザの人々の暮らしや環境は、急激な開発によってに激変しているが、自分たちにとって大切なものは何かを見失う事がなければ、きっと柔軟に対応していけると信じている。



2024年4月22日  


閲覧数:253回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page